どこまでが自分?-映画「リリーのすべて」レビュー

友達と映画「リリーのすべて」を観に行った。

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新進気鋭の風景画家アイナーと、肖像画家の妻ゲルダ。ふたりは子どもができないことに悩みつつも、仲睦まじく暮らしていた。ある日、ゲルダは遅刻したモデルの代わりに、アイナーにバレエシューズを履いてモデルになってくれるよう頼む。
一見すると、アーティストの戯れ。
けれどそれは、アイナーが内に押さえつけてきた《リリー》が外に出てくる瞬間だった。
 
女性として振る舞うことで、本当の自分を解放していくアイナー。「これはただのゲームじゃない」と気づいたゲルダは「もうリリーになるのはやめて」と言うが、アイナーは止められない。やがてゲルダは、《アイナー》との別れを悲しみながらも《リリー》を受け入れていこうとする。
 
 
人は、性から逃れられない。
 
映画を観ながら、そのことを強く感じていた。 
例えば、私が20kg体重を落としたとする。
だからといって、痩せた私を「私」じゃないと考える人は多分いないだろう。
ファッションの系統を変えたら? 
おそらく「雰囲気変わったね」で終わりだ。
もしも整形したら?
逃亡か何かのために思いっきり別人になるのではなく、嫌なところを直すだけだったら、きっと「私」のままだろう。
 
じゃあ、性別が変わったら?
 
アイナーはリリーになったことで、ゲルダと夫婦でいることはできなくなった。ふたりのセクシュアリティーはよく分からないけれど、恋愛を基にする関係ではなくなったのは確かだ。ゲルダは《アイナー》を愛していたということも。
 
けれど、それで愛がなくなったわけではない。親子、親友、姉妹…言葉にはなかなか表せない愛に昇華していた。
 
《リリー》をめぐるふたりの関係の変化。
 
それを見ていると、人は、一体どこまでが「自分」であると言えるのだろうと思った。性別が変われば、その人はその人でなくなるのだ。少なくとも社会的には。そのことが、とても不思議だった。
 
自分を形成するのは何なのか。
その問いを、この映画を通して考えさせられたし、これからも考え続けるだろう。
 
 
映画館で、パンフレットと原作の小説(最後の一冊だった!)を買った。読まねば。
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