差別と表現

https://mainichi.jp/articles/20180922/k00/00m/040/016000c

https://m.huffingtonpost.jp/amp/2018/09/20/shincho-45-ogawa-article_a_23533100/

 

「LGBTsには生産性がないから支援の必要はない」という寄稿で炎上した杉田水脈議員を擁護するという特集で、小川榮太郎氏が「LGBTsが認められるなら痴漢も認められるべき」と性的指向を犯罪と並べて炎上した。

何回炎上する気だ。

 

内心LGBTsのことを気持ち悪い、どうしても差別せずにはいられない、という人もいるだろう。ただこの人たちのような表現を表に出さないだけで。

杉田水脈議員の炎上の時に、便乗? するような形で「LGBTsを気持ち悪いと思うことも叩かれるのか」とマイノリティー側を批判するような意見をよく目にした。

なんでそんなことで悩むんだろう、と思った。

人の心は見えない。もしも「正直ゲイ? とかレズビアン? は理解できないな……」と思ってたとしても、あなたが声に出したりTwitterに呟いたりしなければ誰も分からない。叩きようがないじゃないか。

 

叩かれるのは、それを表に出したからだ。あなたが差別している人間も、暴力に傷つく身体と心を持っている。あなたがマイノリティーを傷つけたから、それに対して返ってくるものが返ってきただけである。キリストのように左頬も差し出す人間はそう多くない。

心の動きは止められない。コントロールできるものなら私だって精神病になってないだろう。だけど、それを外部に出力するかどうかは自分次第だ。自分が思っているからと言ってすぐに暴言を吐いてもいいと思うなら吐けばよい。殴り返すだけだ。報復されたくないなら初めから傷つけなければよい。

 

 

最後に「差別的だからって流通から締め出すのは表現の自由言論の自由の侵害になる」という考えについて思うこと。

暴言を自由と認めるなら即ち暴力も自由ということになり、ムカついたからという理由で杉田水脈議員や小川榮太郎氏の家を燃やしたり新潮社に爆弾を仕掛けたりするのも自由の範疇に入ってしまうのではないのかと思うんですが、それはどうなんでしょうかね?

言葉が持つ力を軽く扱いすぎじゃないだろうか。