マイノリティーのための文学-トニ・モリスン『青い眼がほしい』感想【読書会紹介本】

先日、知り合いに誘われて読書会に参加してきました。その時に紹介した本について、ブログでも書こうと思います。

 

読書会紹介本①トニ・モリスン『青い眼がほしい』

 アフリカ系アメリカ人の女性作家として初めてノーベル文学賞を受賞した、トニ・モリスンのデビュー作。家族やクラスメイトなど周囲の人からないがしろにされ、白人の美(=青い眼)に憧れる黒人の少女・ピコーラに悲劇が起こるまでを、多角的に描いている。初版は1970年。

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 内容について語る前に、昔のことについて書きたい。

 私は、3歳から8歳まで父の仕事の都合でアメリカのシカゴに住んでいた。6歳からは日本人学校に通い始めた。そこの学校では、「米社」というアメリカの社会・歴史についての授業があった。7歳の頃、その授業で黒人差別を知った。小さい子どもに聴かせる話だから、かなりぼやかされていたとは思うけれど、それでも臆病な私を震え上がらせるには充分だった。それからしばらく、街を歩く白人がみな、凶悪犯罪者に見えた。(ちなみに、当時のシカゴは、白人7割黒人2割その他1割、という感じだった)

 

 幼いころの恐怖体験のせいか、この本を読むのがかなり怖かった。きっと残酷なことが書いてあるはずだ、と思い込んでいたからである。けれど、「あさイチ」で西加奈子さんがこの本について語っているのを聴いて、「読まなきゃ」と訳の分からない使命感に駆られ、手に取ってみた。

 予想に反して、物語の調子は伸びやかで、あまり残虐さは感じなかった。いや、物語の内容自体はとても辛いのだが、なぜか読んでいて本を閉じてしまいたくはならない。ピコーラに対する暴力をひたすらに書くのではなく、暴力から彼女を護ろうとした姉妹や、暴力をふるってしまった側から物語を語っているからかもしれない。そして、彼女を差別した側の人生も語られている。それを読んで私は、差別者は差別者として生まれつくのではないのだということを知った。自分を取り巻く世界から、「差別のコード」みたいなモノをいつからか学び、それを実行してしまうのだと。

 

 私はかつて、差別者を恐怖し軽蔑した。何て汚らしい存在なんだろうと思った。けれど、私にも、差別する側・される側に貶められる可能性がいつだって付きまとっていたのだ。

 

 『青い眼がほしい』はもう40年以上前に書かれた本だ。けれど、決して古さは感じないし、これからも感じることはないだろう。差別が存在し、自分のマイノリティー性に嫌悪する人がいる限り。

 人種に限らず、すべての「私はマイノリティーである」という問題について苦しむ人にはぜひ読んでほしい。もちろん、差別問題に興味のある人も。