わかりやすさ、という価値

わかりやすさ、というものの価値について、この三日間で考えることが多かった。


おととい。
大学でお世話になった先生と、ランチの後でお茶をした。その時に、光文社新訳文庫の亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』の話をした。
とても平易な文章に、生き生きと血の通った登場人物たち。一気に好きになってしまった。
だけど、どんなことにも文句はつくものだ。
亀山郁夫訳を、「語順が正確でない、たとえ難解になったとしても高尚な訳にするべきだ」と批難している人もいて、びっくりした。そんなことを話した。

先生は「えー?」と眉をしかめた。
「わかりやすさって一番大事なことじゃない。難しいことを難しいままにして人に伝えたって、何の価値もないと思う。私は、講義を噛み砕いてわかりやすくして、学生さんに知識を伝えたいし、そうするようにしてる」


昨日。
尊敬するゼミの教授が定年退職するということで、最終講義と退官記念パーティーが開催された。詳しくは昨日も書いたが、教授は谷崎潤一郎の文学が専門で、特に阪神間での谷崎の足跡にこだわって、自分の足を使って調査された。
最終講義で、先生がこんなことをおっしゃっていた。

「私が文学の研究者として心がけたことが、ふたつあります。
ひとつめは、研究を机上の空論にしないこと。
ふたつめは、文学を研究者だけのものにしないこと。
文学は開かれたものであるべきです。一部の研究者が、学会で議論するだけの存在ではない」
先生は、谷崎文学の講義では、小難しい言葉を一切使わなかった。


そして今日。
『幸せになる勇気』の読書会に参加した。この本は、アドラー心理学の名を広めたベストセラー『嫌われる勇気』の続編だ。これらの本に共通しているのは、考え方としては分かるのだけど、実際に行動に移そうとすると、どう動くのか分からなくなる所だ。手足をバタバタするよくな気分になる。

読書会の話し合いでも、難しい言葉は出てこなかった。参加者は、自分のことばで、自分の思いや解釈をまっすぐに語っていた。
アドラー心理学を実際に行動に移し、合っているのかそうでないのか考えながら、実践し続ける。とりあえずバタバタしても動く。前向きでつよい姿勢を目の当たりにして、私も実践しよう、と思った。


わかりやすさは不思議だ。
わかりやすいからと言って、それが大したことではないとは言えない。むしろ、分かりにくいことほど大したことないのではないかと思う。
だって、大切なことだったら少しでも多くの人に伝えたくなるでしょ。だから、できるだけ多くの人が理解できる方法で、できるだけ簡単に伝えようとするんじゃない?

わかりやすさは、誰かの愛だ。
知識、作品、哲学を、誰かに伝えたいと思うほど愛した誰かの思いを、私は愛する。