野望

仕事に慣れなくて病んでいたが、元気になってきた。

やっぱりまだ失敗ばかりなのだけど、仕事そのものには慣れてきた感じがある。
ちょっと前までは、昼休みにトイレに5分だけでも引きこもらないと精神的にしんどかったのに、最近は全然平気だ。仕事をしているときの気分が、明るくなってきた。


図書館司書は、接客業なのだけどお金のやり取りをしないので、かなり気は楽だ。何かいちゃもんを付けられても

「不満があるなら本屋で買えや」

と思って溜飲を下げることができる(品のあるお客さんが多いので、そんなことは滅多にないのだが)。そもそも、どんな大金を払ったって、人にぎゃーぎゃー文句をつけて傷つけたり疲労させたりする権利なんて、買えないのだが。


それに、妙にキャラが濃い人がやってくるので、ネタに事欠かない。(スタッフも)一風変わった人が多いのだ。本には変人を寄せ集める作用でもあるのだろうか…。

利用者の読書の秘密を守らなければならないので、ここで書き散らしたりはしない。だけど面白いので、いつかちょっとだけキャラを変えて、小説でも書いてやろうかと思っている。

周りの人間じゃなく、前の自分と比べよう

今日は精神科に行ってきた。前は1ヶ月に1回くらいのペースだったけど、仕事を始めてからは2週間に1回通っている。


土日は死にたくなるほど忙しく、連休がなく、失敗ばかりしており、電話が怖くて出られない。そのようなことを、先生にポツポツとしゃべった。

特に「電話に出られない」が一番つらいことだ。みんなできていることだし、先輩や上司からも電話出ろって言われるし。でも、電話の音が鳴り響くと、体が固まってしまう。出なきゃ、出なきゃ。そう思っているうちに、他の誰かが出ている。


話しているうちに、何だか泣けてきた。先生はそんな私を見て、静かに言った。

「でも、電話をかけることはできるんでしょう。それなら、半分はできているってことになる。それに、あなたが出なくっても他の誰かが出るんだから、そんなに迷惑はかけていないはずですよ」

そうか。なるほど。

思えば私は、周りと自分を比較して落ち込んでいた。冷静な判断ができない。要領よく話すことができない。必要な情報をすぐに聴きだすことができない。電話に出られない。

でも、周りが私より優秀なのは、考えてみれば当たり前なのだ。新人仲間はみんな転職してきた人ばかりで、私より遥かに多くのスキルを既に持っている。スタートラインがそもそも違うのだった。

初めて電話をかけたときは、ロボットよりも機械みたいな話し方だった。お客さんに話しかけられたくなくて、人の気配を察したらすぐ逃げていた。本の場所も全然分からなかった。

進歩したところも、少しだけれどあるのに、そこに目を向けるのを忘れていた。


先生は最後に言った。
「多分ね、いまは試練の時が来ているんだと思う。時期的にも、疲れがどっと出てくるころだし。一度様子を見て、薬を増やすかどうかを考えましょう」

試練の時、か。
乗り越えられるかどうかは、分からない。もしかしたら逃げるかもしれない。でも、進歩することだけは忘れないようにしよう。それを見つけて自分を褒めるってことも、ね。


ところで今日の記事、タイトルセンスがびっくりするほどないですね。やはりメンタルがヘラっているからか。うむむ。

私の「しにたい」は「シンガポールに行きたい」の略

雨の平日。それだけが救いだった。こういう日は、明らかに客が少ない。いつもよりのんびりすることができる。


風邪をこじらせ、2日半ほど寝込んでいた(職場で吐き気を感じてトイレに駆け込んだら、早退させられた。めっちゃホワイトだ)。仕事がせまってきた昨日の夜、私は仕事が嫌で、あーしにたい、という気分になった。抑うつはほとんど治ったと思っていたけど、やっぱりまだ気分障害があるらしい。

私の「しにたい」は「シンガポールに行きたい」の略、と自分に言い聞かせ、職場へ向かった。ものすごく憂鬱だったからか、病み上がりでまだ頭がぼんやりしているからか、偉い人から挨拶をされてしまい、あああ、と自己嫌悪した。

それでも、暇にしていると元気が出る。急がなくてもいい、ということが、どれほど私の精神を癒してくれることか。のんびりと自分のペースで仕事をした結果、昼頃には気分がかなり明るくなっていた。


今はしにたいだなんて少しも思わないが、シンガポールにはやっぱり行きたい。 
誰か一緒に行きませんか? 
シンガポールには5回くらい行ったことあるし、何でも食べるし、旅の連れ合いとしては私、悪くないと思うんだけど。
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読みました。

 映画「リリーのすべて」http://onomachi009.hatenablog.com/entry/2016/03/25/213942の原作小説、遅くなったけれど読了。通勤時間や昼休み、お休みの日を使ってゆっくりゆっくりと読みました。社会人が読書するのって結構大変だ。これまでだとありえないくらい読むのに時間がかかってしまって、時間の使い方を考えなきゃいけないな、と思った。

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 映画では、アイナーの妻はデンマーク人の肖像画家・ゲルダなのですが、小説ではアメリカ人のグレタだったのですね。冒頭はかなり映画の内容と近く、ノベライズされているかのように感じた。

 

 中盤からはアイナーだけでなくグレタの半生についても語られる。

 アメリカの裕福な家庭に育ったが、周囲から押し付けられる「女性らしさ」を受け入れることができなかったこと、自分が起こした事故で弟に足の障害を負わせてしまったこと、愛する夫(アイナーではない)に先立たれてしまったこと……。

 グレタは、《アイナー》と《リリー》の間で苦悩する夫を支える妻、としてだけの存在ではなく、哀しい過去を背負い、勇敢で、献身的で、自由な、万華鏡のようにさまざまな面を持つキャラクターとして描かれていた。

 

 映画では、ゲルダは最期までアイナー、そしてリリーを傍で支え続けますが、小説では違います。一度目の手術に成功したリリーはヘンリクと恋に落ち、次の手術に成功したらふたりでニューヨークに渡り結婚しようと約束。一方グレタは、夫の旧友で美術商であるハンスからアプローチされ、本人も気持ちが揺らぎますが「私はアイナーの妻なのだから」と彼を突っぱねる。しかし、ヘンリクを愛したリリーを責めはせず、自分から彼女を手放し、ハンスとともに故郷カリフォルニアへ帰ることを決意。

 小説のラストは、最後の手術を終えたけれど、術後の経過がよろしくないリリーを、友人のオペラ歌手・アナとグレタの弟カーライルが、川辺へピクニックに連れて行く場面。そこにはグレタもヘンリクも、いない。

 

 女性の愛情には、「献身性」が求められやすいと思う。正直に言うなら、過剰に求められていると思っている。

 戸惑いながらも最期までリリーの傍にいて懸命に支えたゲルダ、ヘンリクを愛し新しい人生を送ろうをするリリーと別れ、自分の人生を歩み出したグレタ。そりゃあ、ゲルダの方がウケはいいだろうな、と思う。でも私は、グレタの選択を間違っているとも冷たいとも思わない。自分では支えられないから、手放す、というのも間違いなく、愛情だと思うので。

14歳の私へ-森絵都『カラフル』

特別お題「青春の一冊」 with P+D MAGAZINE
http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/pdmagazine

 

 (一応)読書ブログとして、この企画に乗っからないわけにはいかない。

 青春の一冊として、中学校の教具室に引きこもっていた14歳の時に読んで、世界の景色が変わった森絵都さんの『カラフル』を挙げたい。

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 当時私は、5人くらいのグループにいじめられていた。今思えば、私を攻撃していたのはそのグループだけだったと思うけれど、人間不信を募らせた結果、私はクラス中に嫌われてると思い込むようになった。人の視線が気になって、教室に行けなくなった。

 

 中学校には、私のように何らかの事情で教室に行けなくなった子が行く避難所のような教室があったが、そこは親の許可を得ないと入れなかった。うちの親は許可してくれなかった。

 朝、私が学校に行きたくないとわめいても、むりやり家から出された。私は私で、そのまま逃亡する勇気はなく、毎日アスファルトをギリギリと踏みしめるように学校に行った。学校に行っても、教室には入れない。トイレや体育館の倉庫に引きこもり、先生に発見され、教室に引きずり込まれそうになるのに必死に抵抗する。14歳のわりにガタイはよく、先生ふたりに引っ張られても動かなかったのだから、自分でも大したものだと思う。

 私を教室に入らせるのを先生方はようやく諦め、保健室登校をすすめられた。それは嫌だった。保健室は体調が悪い人や怪我人のものであって、私は入れないと思った。そして提案されたのが、教具室登校だった。

 

 教具室は、数学教師が使う巨大な三角定規やコンパス、大量の配布物が保管されている教室だ。適度にちらかっていて、居心地がよかった。昼休みや放課後など、人が入ってくる時間帯はなるべくいないようにしていたが、それ以外はプリント学習や読書に精を出していた。

 

 色々な本を読んだが、その中でも森絵都さんの『カラフル』を読んだ時は、静かに感動したとともに、地獄みたいな家と学校の往復の毎日が、何でもないように思えた。

 

 死んでしまった主人公が死後の世界を彷徨っていると、抽選にあたり中学生男子として再び生を与えられることとなる。その中学生男子は家でも学校でも問題を抱えているパッとしない子で、心の底から共感した。入っている部活(美術部)まで同じだった。問題だらけの人生を生きていくなかで、少年は人生の美しさや生きるということを知っていく。

 

 あの頃死ななかったのは多分、この本を読んだおかげだ。最後で少年は、生き返らせてくれた天使に言う。「でも、大丈夫かな。他人の人生だと思っていたから好き勝手していたけど、これからはそういうわけにいかない」。天使は「これがあと60年くらい延長になったと思えばいい」。

 そうか、すべて終わりがあるんだ。

 そのことに気付いてから、死にたいという気持ちがスッと消えて行った。どうせあと60年も経てば、みんなみんなきっと忘れてるか死んでるさ。

 

 14歳の私に会えるなら、こう言いたい。

 「今はクソみたいな人生だろうけど、いつかあいつらは生きてようが死んでようがどうでもいい存在になるし、息が止まるほど綺麗な景色も見れるし、楽しい思い出がいっぱいできる。死なないでくれてありがとう。今日もどうか、だましだまし生きてみて」と。

 

 私もだましだまし、生きて行きます。