愚痴を許す

なぜだか分からないが、愚痴られやすい。
いかにも人の良さそうな顔をしている(ペコちゃんとヨーゼフに似ているとよく言われる)からか、あまり話すのが得意ではなくて自然と聞き役になってしまうせいなのか。
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つい最近まで、私は愚痴られることにむちゃくちゃムカついていた。愚痴られるのが嫌すぎて、本気でアメリカ移住を考えたことがあるくらいだ(アメリカでは友人や知人に愚痴るのが一般的ではないらしい)。

常に愚痴っぽいモードの人間が大っ嫌いだった。

今まで出会った愚痴スタンダード人間は、自分の愚痴を私が聴くのは当然、聴かなかったらヒドイ、というスタンスであった。

頭どうかしてんじゃないの?

心の中で、しね、と罵倒しながら、それでも話を切り上げるスキルも強さもない私はただ愚痴を聴いていた。


愚痴られるのが嫌いな理由は、時間を奪われているように感じるからだ。

うんざりするような話を聴いているヒマがあるなら、本を読みたいし、アニメだって観たいし、友達と楽しい話をしたい。
私の二度と帰ってこない時間を奪っておきながら、被害者ヅラしてばかりの情けない目の前の人間に、同情することなんてできなかった。


でも、二十歳を超えた頃から、愚痴を少しずつ許せるようになった。
何か分かりやすいきっかけがあったわけではない。だけど、大学時代に「自分」についてしっかりと悩み、考えたことで、ちょっと他人に対して寛容になれたのではないかと思っている。

自分のことを、自分で見つめて悩む。
自分について思いっきり悩めたから、他人のは悩みや、それを人に言わずにはいられない弱さを「しゃーないか。しんどい時もあるよね」と思えるようになったのかもしれない。


でもやっぱり今でも愚痴っぽい人間は嫌いだし、私自身としては、愚痴るヒマがあるなら愚痴らなくてもいいくらい素敵な生活を送れるようにがんばりたい所存であります。

野望

仕事に慣れなくて病んでいたが、元気になってきた。

やっぱりまだ失敗ばかりなのだけど、仕事そのものには慣れてきた感じがある。
ちょっと前までは、昼休みにトイレに5分だけでも引きこもらないと精神的にしんどかったのに、最近は全然平気だ。仕事をしているときの気分が、明るくなってきた。


図書館司書は、接客業なのだけどお金のやり取りをしないので、かなり気は楽だ。何かいちゃもんを付けられても

「不満があるなら本屋で買えや」

と思って溜飲を下げることができる(品のあるお客さんが多いので、そんなことは滅多にないのだが)。そもそも、どんな大金を払ったって、人にぎゃーぎゃー文句をつけて傷つけたり疲労させたりする権利なんて、買えないのだが。


それに、妙にキャラが濃い人がやってくるので、ネタに事欠かない。(スタッフも)一風変わった人が多いのだ。本には変人を寄せ集める作用でもあるのだろうか…。

利用者の読書の秘密を守らなければならないので、ここで書き散らしたりはしない。だけど面白いので、いつかちょっとだけキャラを変えて、小説でも書いてやろうかと思っている。

周りの人間じゃなく、前の自分と比べよう

今日は精神科に行ってきた。前は1ヶ月に1回くらいのペースだったけど、仕事を始めてからは2週間に1回通っている。


土日は死にたくなるほど忙しく、連休がなく、失敗ばかりしており、電話が怖くて出られない。そのようなことを、先生にポツポツとしゃべった。

特に「電話に出られない」が一番つらいことだ。みんなできていることだし、先輩や上司からも電話出ろって言われるし。でも、電話の音が鳴り響くと、体が固まってしまう。出なきゃ、出なきゃ。そう思っているうちに、他の誰かが出ている。


話しているうちに、何だか泣けてきた。先生はそんな私を見て、静かに言った。

「でも、電話をかけることはできるんでしょう。それなら、半分はできているってことになる。それに、あなたが出なくっても他の誰かが出るんだから、そんなに迷惑はかけていないはずですよ」

そうか。なるほど。

思えば私は、周りと自分を比較して落ち込んでいた。冷静な判断ができない。要領よく話すことができない。必要な情報をすぐに聴きだすことができない。電話に出られない。

でも、周りが私より優秀なのは、考えてみれば当たり前なのだ。新人仲間はみんな転職してきた人ばかりで、私より遥かに多くのスキルを既に持っている。スタートラインがそもそも違うのだった。

初めて電話をかけたときは、ロボットよりも機械みたいな話し方だった。お客さんに話しかけられたくなくて、人の気配を察したらすぐ逃げていた。本の場所も全然分からなかった。

進歩したところも、少しだけれどあるのに、そこに目を向けるのを忘れていた。


先生は最後に言った。
「多分ね、いまは試練の時が来ているんだと思う。時期的にも、疲れがどっと出てくるころだし。一度様子を見て、薬を増やすかどうかを考えましょう」

試練の時、か。
乗り越えられるかどうかは、分からない。もしかしたら逃げるかもしれない。でも、進歩することだけは忘れないようにしよう。それを見つけて自分を褒めるってことも、ね。


ところで今日の記事、タイトルセンスがびっくりするほどないですね。やはりメンタルがヘラっているからか。うむむ。

私の「しにたい」は「シンガポールに行きたい」の略

雨の平日。それだけが救いだった。こういう日は、明らかに客が少ない。いつもよりのんびりすることができる。


風邪をこじらせ、2日半ほど寝込んでいた(職場で吐き気を感じてトイレに駆け込んだら、早退させられた。めっちゃホワイトだ)。仕事がせまってきた昨日の夜、私は仕事が嫌で、あーしにたい、という気分になった。抑うつはほとんど治ったと思っていたけど、やっぱりまだ気分障害があるらしい。

私の「しにたい」は「シンガポールに行きたい」の略、と自分に言い聞かせ、職場へ向かった。ものすごく憂鬱だったからか、病み上がりでまだ頭がぼんやりしているからか、偉い人から挨拶をされてしまい、あああ、と自己嫌悪した。

それでも、暇にしていると元気が出る。急がなくてもいい、ということが、どれほど私の精神を癒してくれることか。のんびりと自分のペースで仕事をした結果、昼頃には気分がかなり明るくなっていた。


今はしにたいだなんて少しも思わないが、シンガポールにはやっぱり行きたい。 
誰か一緒に行きませんか? 
シンガポールには5回くらい行ったことあるし、何でも食べるし、旅の連れ合いとしては私、悪くないと思うんだけど。
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読みました。

 映画「リリーのすべて」http://onomachi009.hatenablog.com/entry/2016/03/25/213942の原作小説、遅くなったけれど読了。通勤時間や昼休み、お休みの日を使ってゆっくりゆっくりと読みました。社会人が読書するのって結構大変だ。これまでだとありえないくらい読むのに時間がかかってしまって、時間の使い方を考えなきゃいけないな、と思った。

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 映画では、アイナーの妻はデンマーク人の肖像画家・ゲルダなのですが、小説ではアメリカ人のグレタだったのですね。冒頭はかなり映画の内容と近く、ノベライズされているかのように感じた。

 

 中盤からはアイナーだけでなくグレタの半生についても語られる。

 アメリカの裕福な家庭に育ったが、周囲から押し付けられる「女性らしさ」を受け入れることができなかったこと、自分が起こした事故で弟に足の障害を負わせてしまったこと、愛する夫(アイナーではない)に先立たれてしまったこと……。

 グレタは、《アイナー》と《リリー》の間で苦悩する夫を支える妻、としてだけの存在ではなく、哀しい過去を背負い、勇敢で、献身的で、自由な、万華鏡のようにさまざまな面を持つキャラクターとして描かれていた。

 

 映画では、ゲルダは最期までアイナー、そしてリリーを傍で支え続けますが、小説では違います。一度目の手術に成功したリリーはヘンリクと恋に落ち、次の手術に成功したらふたりでニューヨークに渡り結婚しようと約束。一方グレタは、夫の旧友で美術商であるハンスからアプローチされ、本人も気持ちが揺らぎますが「私はアイナーの妻なのだから」と彼を突っぱねる。しかし、ヘンリクを愛したリリーを責めはせず、自分から彼女を手放し、ハンスとともに故郷カリフォルニアへ帰ることを決意。

 小説のラストは、最後の手術を終えたけれど、術後の経過がよろしくないリリーを、友人のオペラ歌手・アナとグレタの弟カーライルが、川辺へピクニックに連れて行く場面。そこにはグレタもヘンリクも、いない。

 

 女性の愛情には、「献身性」が求められやすいと思う。正直に言うなら、過剰に求められていると思っている。

 戸惑いながらも最期までリリーの傍にいて懸命に支えたゲルダ、ヘンリクを愛し新しい人生を送ろうをするリリーと別れ、自分の人生を歩み出したグレタ。そりゃあ、ゲルダの方がウケはいいだろうな、と思う。でも私は、グレタの選択を間違っているとも冷たいとも思わない。自分では支えられないから、手放す、というのも間違いなく、愛情だと思うので。