あなたの腕の中で
窓の外を見遣ると、紫、青、ピンク。紫陽花が雨に濡れながら咲いていた。紫陽花に感情はあるのだろうか。どこかで、「きれいだよ、がんばって咲いてね」と言われたチューリップは大輪の花を咲かせ、「おまえなんてさっさと枯れてしまえ」と言われたチューリップは咲かずに枯れてしまうという実験の話を聞いたことがある。言葉がけでチューリップは自信、あるいは自己嫌悪を抱くのなら、紫陽花だって感情があっても不思議ではないだろう。同じ紫陽花の花壇でも、なごやかなグループとギスギスしたグループがあるのかもしれない。
あなたはわたしを、後ろから抱きしめる。あなたはけして大柄ではない。むしろ男性としては小柄な方だ。背はわたしと同じくらいか、少し低いくらい。けれど、あなたの腕や胸はたくましく、温かい。首筋に息がかかってくすぐったい。あなたもわたしも、何も話さないけれど、うなじで感じる呼吸と体温と鼓動は、どんな言葉よりも雄弁にあなたの存在をわたしに知らしめる。わたしはあなたから逃げられないことを知っている。あなたも知っているはずだ、わたしには優しい拘束はいらないことを。
詩のような夢を見た。一体どんなシチュエーションなのか、自分でも全く分からないが、起きた時の気分は悪くなかった。
ズートピアはいいぞ
昨日、仕事終わりにスマホを開くと、妹からLINEが来ていた。
妹は基本的に辛口で、良かったとしても「まぁ悪くはない」とかのたまうタイプだ。
そんな妹が褒めている…?!
結論。
ズートピアはいいぞ。
動物たちが人間のように暮らす文明社会、ズートピア。そこでは、肉食獣も草食獣も入り混じって生活している。
田舎の農場育ちのジュディ(ウサギ)は、草食獣・ちっさいというハンデを努力で乗り越え、夢見ていた警察官になる。晴れてズートピアに上京(?)したジュディだが、署を挙げて捜査している肉食獣失踪事件には関わらせてもらえない。
ある日、上の命令を無視して、ジュディは泥棒を捕まえる。それが署長の逆鱗に触れ、危うくクビにされそうになるが、「行方不明のカワウソを48時間以内に見つける」ことに成功すればクビはなし、ということになる。
ほとんど手かがりのない中、ジュディはズートピアで出会ったキツネの詐欺師・ニックと(無理やり)捜査を開始する。それをきっかけに、ジュディとニックは大事件に巻き込まれていく。
あらすじの紹介はここまでにして、個人的にいいなと思うところを3つ挙げる。
- ジュディとニックのバディ感
- 動物の特性を生かしつつ、自分で自分を縛っていないか? というメッセージ
- セクマイ(と思われる)キャラクターを登場させている
ジュディは、小さい頃キツネの同級生に怪我をさせられる。前向きで努力家な彼女だが、心のどこかでキツネに対する恐怖心が消えていない。また、どんなに努力しても「小さい草食獣」というだけで親や周囲から夢を諦めるように言われる。
一方キツネのニックは、キツネである(肉食獣である)ことからいじめられた経験がある。キツネであるというだけで、ズートピアでは信用してもらえない。心を閉ざした彼は、キツネらしく狡く生きてやろうと思ってきた。
この組み合わせが本当にいい。真面目一直線なジュディにはニックのずる賢さや柔軟性が、人生を諦めどこかすれているニックにはジュディのまっすぐさやひたむきさが必要なのだ。恋愛には発展しないけれど、だからこそ、ふたりの関係は尊い。
映画には動物の特性を生かしたシーンがいくつも登場する。ジュディは、ウサギのジャンプ力を生かして泥棒を追跡するし、アイスを売るニックは、集団行動で知られるレミングに声をかけることで一気に儲ける。
だが、ジュディとニックが失踪したカワウソ探しで訪れたヨガ教室(?)では、「象は記憶力がいいから羨ましいよ」と言いながら、象のキャラクターよりも詳細にカワウソについて語るヌー(多分)が登場する。動物の特性に注目するあまり、自分の記憶力のよさに気づけていないのだ。私たちも「自分はこういうタイプだから…」と決めつけていないか? というメッセージを(勝手に)受け取った。
ズートピアは、多民族や異文化、多人種が混ざり合って生きていくことの困難と、希望を描いていると思う。ズートピアの理念は「誰だって何にでもなれる」だ。けれど、有利不利はあるし、差別もある。そんな中でも、お互いへの理解を諦めない動物たちは、本当に眩しい。
そしてすごいな、と思ったのは、セクマイ(性的少数者)と思われるキャラクターが登場することだ。ジュディの隣人はケンカばかりの男性コンビだし、大人気の歌姫ガゼルは女性の格好をしているが立派な角が生えている(ガゼルのメスはふつう角がない)。
どちらも「どうとでも受け取れる」レベルの話で、お隣さんはゲイカップルでガゼルはトランスジェンダーと言い切れるわけではない。だけど、そう思える余地を作ってあることが素晴らしいと思うのだ。ディズニーも異性愛主義から脱却しつつあるのかもしれない。
長々と書いたけれど、面白くて元気が出る映画なのでまだの人はぜひ観てください。ズートピアはいいぞ(4回目)
ごちそうさま!ー米原万里著・佐藤優編『偉くない「私」が一番自由』感想
米原万里が亡くなって、10年が経つ。
つまり彼女の書いたものは、2006年から時が止まっているのであるが、なぜか古さは感じさせない。たっぷりのユーモアと鋭い観察眼が成せる技なのか。
ゲラゲラ笑って、でも人間について深く考えさせられる。残念ながら私の語彙では、こんな陳腐なことばでしか彼女のエッセイを表現できない。そうだなあ、食べ物に例えるならば、ボルシチに似ていると思う。こっくりとした、滋味豊かな味がする。
あとがきでは「米原万里さんとは10回ほどしか会ったことがない」とあるが、米原万里への敬意・親愛をひしひしと感じる本だった。どれも非常に面白く、米原万里の思想の基本、生い立ち、愛したものを一冊で何となく分かるようになっている。合間に挟まれる、佐藤優によるロシア料理の解説も興味深い。
卒業論文は、誤字脱字は多かったけれど、文章の才能と着眼点の豊かさが感じられる、とてもスリリングで面白いものだった。私はロシア文学にまったく詳しくないし、詩なんて何も知らないけれど、それでも引き込まれる力強さがある論文だった。
とても美味しくいただきました。
ごちそうさま!
きらめきに涙
先ほど近所のイオンに行ってきた。
美容院に行った以外は寝てばかりだった、すごく時間をムダにした感のある休日を、少しだけでも充実させるべく、おやつと本を買いに行ったのである。
郊外では天下を取った感のある泣く子も黙る(いや、土日だと走り回ってるお子さんが結構多くて、怖いからやめてほしいんだけど)大型スーパー・イオンとはいえ、平日の夜は静かだ。
仕事帰りとおぼしきおじさん、部屋着みたいな格好の母娘。ラフなリラックスモードと倦怠感が絶妙に絡み合う、なかなか落ち着く空気感となっている。
駄菓子を買い、本屋を覗こうとふらふら歩いていると、シュークリーム屋の前にいた、並ぶ高校生らしい男の子ふたりに女の子ひとりの三人組が目についた。
部活帰りなのかくたびれた制服、ボサボサになった髪、日焼けして少し赤くなっている頰。
全然洗練されていない子たちだった。だけど、だからこそ、何だかキラキラしているように見えて、不覚にも涙が出そうになってしまった。
私は、人生のピークは10代で、あとは枯れていくだけだなんてそんな悲しいことは信じていないけど、というか私は10代のときも全くキラキラしていなかったけど、どうして彼らにはきらめきを感じてしまうんだろう。
10代のきらめきも、大人のきらめきも素敵だ。だけど私は、10代には戻れず大人のきらめきを追求していく気力もなく、ただその狭間で呆然としている。今はそんな感じ。
愚痴を許す
なぜだか分からないが、愚痴られやすい。
いかにも人の良さそうな顔をしている(ペコちゃんとヨーゼフに似ているとよく言われる)からか、あまり話すのが得意ではなくて自然と聞き役になってしまうせいなのか。
つい最近まで、私は愚痴られることにむちゃくちゃムカついていた。愚痴られるのが嫌すぎて、本気でアメリカ移住を考えたことがあるくらいだ(アメリカでは友人や知人に愚痴るのが一般的ではないらしい)。
常に愚痴っぽいモードの人間が大っ嫌いだった。
今まで出会った愚痴スタンダード人間は、自分の愚痴を私が聴くのは当然、聴かなかったらヒドイ、というスタンスであった。
頭どうかしてんじゃないの?
心の中で、しね、と罵倒しながら、それでも話を切り上げるスキルも強さもない私はただ愚痴を聴いていた。
愚痴られるのが嫌いな理由は、時間を奪われているように感じるからだ。
うんざりするような話を聴いているヒマがあるなら、本を読みたいし、アニメだって観たいし、友達と楽しい話をしたい。
私の二度と帰ってこない時間を奪っておきながら、被害者ヅラしてばかりの情けない目の前の人間に、同情することなんてできなかった。
でも、二十歳を超えた頃から、愚痴を少しずつ許せるようになった。
何か分かりやすいきっかけがあったわけではない。だけど、大学時代に「自分」についてしっかりと悩み、考えたことで、ちょっと他人に対して寛容になれたのではないかと思っている。
自分のことを、自分で見つめて悩む。
自分について思いっきり悩めたから、他人のは悩みや、それを人に言わずにはいられない弱さを「しゃーないか。しんどい時もあるよね」と思えるようになったのかもしれない。
でもやっぱり今でも愚痴っぽい人間は嫌いだし、私自身としては、愚痴るヒマがあるなら愚痴らなくてもいいくらい素敵な生活を送れるようにがんばりたい所存であります。